僕の下宿の婆さん

「さっき僕の月給を上げてやるというお話でしたが、少し考えが変ったから断わりに来たんです」 赤シャツはランプを前へ出して、奥の方からおれの顔を眺《なが》めたが、とっさの場合返事をしかねて茫然《ぼうぜん》としている。増給を断わる奴が世の中にたった一人飛び出して来たのを不審《ふしん》に思ったのか、断わるにしても、今帰ったばかりで、すぐ出直してこなくってもよさそうなものだと、呆《あき》れ返ったのか、または双方合併《そうほうがっぺい》したのか、妙な口をして突っ立ったままである。「あの時承知したのは、古賀君が自分の希望で転任するという話でしたからで……」「古賀君は全く自分の希望で半ば転任するんです」「そうじゃないんです、ここに居たいんです。元の月給でもいいから、郷里に居たいのです」「君は古賀君から、そう聞いたのですか」「そりゃ当人から、聞いたんじゃありません」「じゃ誰からお聞きです」「僕の下宿の婆さんが、古賀さんのおっ母《か》さんから聞いたのを今日僕に話したのです」「じゃ、下宿の婆さんがそう云ったのですね」「まあそうです」「それは失礼ながら少し違うでしょう。あなたのおっしゃる通りだと、下宿屋の婆さんの云う事は信ずるが、教頭の云う事は信じないと云うように聞えるが、そういう意味に解釈して差支《さしつか》えないでしょうか」 おれはちょっと困った。文学士なんてものはやっぱりえらいものだ。妙な所へこだわって、ねちねち押《お》し寄せてくる。おれはよく親父《おやじ》から貴様はそそっかしくて駄目《だめ》だ駄目だと云われたが、なるほど少々そそっかしいようだ。婆さんの話を聞いてはっと思って飛び出して来たが、実はうらなり君にもうらなりのおっ母さんにも逢って詳《くわ》しい事情は聞いてみなかったのだ。だからこう文学士流に斬《き》り付けられると、ちょっと受け留めにくい。 正面からは受け留めにくいが、おれはもう赤シャツに対して不信任を心の中《うち》で申し渡してしまった。下宿の婆さんもけちん坊《ぼう》の欲張り屋に相違ないが、嘘は吐《つ》かない女だ、赤シャツのように裏表はない。おれは仕方がないから、こう答えた。

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