良人《おっと》の肩に倚《よ》りつ

「何をいうのかい。なおらずにどうする。なおるよ、きっとなおるよ」 浪子は良人《おっと》の肩に倚《よ》りつ、「でもひょっとしたらなおらずにしまいはせんかと、そう時々思いますの。実母《はは》もこの病気で亡《な》くなりましたし――」「浪さん、なぜ今日に限ってそんな事をいうのかい。だいじょうぶなおる。なおると医師《いしゃ》もいうじゃアないか。ねエ浪さん、そうじゃないか。そらア母《おっか》さんはその病気で――か知らんが、浪さんはまだ二十《はたち》にもならんじゃないか。それに初期だから、どんな事があったってなおるよ。ごらんな、それ内《うち》の親類の大河原《おおかわら》、ね、あれは右の肺がなくなッて、医者が匙《さじ》をなげてから、まだ十五年も生きてるじゃないか。ぜひなおるという精神がありさえすりアきっとなおる。なおらんというのは浪さんが僕を愛せんからだ。愛するならきっとなおるはずだ。なおらずにこれをどうするかい」 武男は浪子の左手《ゆんで》をとりて、わが唇《くちびる》に当てつ。手には結婚の前、武男が贈りしダイヤモンド入りの指環《ゆびわ》燦然《さんぜん》として輝けり。 二人《ふたり》はしばし黙して語らず。江の島の方《かた》より出《い》で来たりし白帆《しらほ》一つ、海面《うなづら》をすべり行く。 浪子は涙に曇る目に微笑を帯びて「なおりますわ、きっとなおりますわ、――あああ、人間はなぜ死ぬのでしょう! 生きたいわ! 千年も万年も生きたいわ! 死ぬなら二人で! ねエ、二人で!」「浪さんが亡くなれば、僕も生きちゃおらん!」「本当? うれしい! ねエ、二人で!――でもおっ母《かあ》さまがいらッしゃるし、お職分《つとめ》があるし、そう思っておいでなすッても自由にならないでしょう。その時はわたくしだけ先に行って待たなけりゃならないのですねエ――わたくしが死んだら時々は思い出してくださるの? エ? エ? あなた?」 武男は涙をふりはらいつつ、浪子の黒髪《かみ》をかいなで「ああもうこんな話はよそうじゃないか。早く養生して、よくなッて、ねエ浪さん、二人で長生きして、金婚式をしようじゃないか」 浪子は良人《おっと》の手をひしと両手に握りしめ、身を投げかけて、熱き涙をはらはらと武男が膝《ひざ》に落としつつ「死んでも、わたしはあなたの妻ですわ! だれがどうしたッて、病気したッて、死んだッて、未来の未来の後《さき》までわたしはあなたの妻ですわ!」

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