武男にはずかしめられて

「あまり話したからいけないのでしょう。胸が痛むの?」「時々せきするとね、ここに響いてしようがないの」 言いつつ浪子の目はたちまちすうと薄れ行く障子の日影を打ちながめつ。

[#5字下げ]四の一[#「四の一」は中見出し]

 山木が奥の小座敷に、あくまで武男にはずかしめられて、燃ゆるがごとき憤嫉《ふんしつ》を胸に畳《たた》みつつわが寓《ぐう》に帰りしその夜《よ》より僅々《きんきん》五日を経て、千々岩《ちぢわ》は突然参謀本部よりして第一師団の某連隊付きに移されつ。 人の一生には、なす事なす事皆図星をはずれて、さながら皇天ことにわれ一|人《にん》をえらんで折檻《せっかん》また折檻の笞《むち》を続けざまに打ちおろすかのごとくに感ぜらるる、いわゆる「泣き面《つら》に蜂《はち》」の時期少なくとも一度はあるものなり。去年以来千々岩はこの瀬戸に舟やり入れて、今もって容易にその瀬戸を過ぎおわるべき見当のつかざるなりき。浪子はすでに武男に奪われつ。相場に手を出せば失敗を重ね、高利を借りれば恥をかき、小児《こども》と見くびりし武男には下司《げす》同然にはずかしめられ、ただ一|親戚《しんせき》たる川島家との通路は絶えつ。果てはただ一立身の捷逕《しょうけい》として、死すとも去らじと思える参謀本部の位置まで、一言半句の挨拶《あいさつ》もなくはぎとられて、このごろまで牛馬《うしうま》同様に思いし師団の一士官とならんとは。疵《きず》持つ足の千々岩は、今さら抗議するわけにも行かず、倒れてもつかむ馬糞《ばふん》の臭《しゅう》をいとわで、おめおめと練兵行軍の事に従いしが、この打撃はいたく千々岩を刺激して、従来事に臨んでさらにあわてず、冷静に「われ」を持したる彼をして、思うてここにいたるごとに、一|肚皮《とひ》の憤恨猛火よりもはげしく騰上し来たるを覚えざらしめたり。 頭上に輝く名利の冠《かんむり》を、上らば必ず得《う》べき立身の梯子《はしご》に足踏みかけて、すでに一段二段を上り行きけるその時、突然|蹴《け》落とされしは千々岩が今の身の上なり。誰《た》が蹴落とせし。千々岩は武男が言葉の端より、参謀本部に長たる将軍が片岡中将と無二の昵懇《じっこん》なる事実よりして、少なくも中将が幾分の手を仮したるを疑いつ。彼はまた従来金には淡白なる武男が、三千金のために、――たとい偽印の事はありとも――法外に怒れるを怪しみて、浪子が旧《ふる》き事まで取り出《い》でてわれを武男に讒《ざん》したるにあらずやと疑いつ。思えば思うほど疑いは事実と募り、事実は怒火に油さし、失恋のうらみ、功名の道における蹉跌《さてつ》の恨み、失望、不平、嫉妬さまざまの悪感は中将と浪子と武男をめぐりて焔《ほのお》のごとく立ち上りつ。

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