すでに午後四時過ぎ

 時はすでに午後四時過ぎ、夕烏《ゆうがらす》の声|遠近《おちこち》に聞こゆるころ、座敷の騒ぎを背《うしろ》にして日影薄き築山道《つきやまみち》を庭下駄《にわげた》を踏みにじりつつ上り行く羽織袴《はおりはかま》の男あり。こは武男なり。母の言《ことば》黙止《もだ》し難くて、今日山木の宴に臨みつれど、見も知らぬ相客と並びて、好まぬ巵《さかずき》挙《あ》ぐることのおもしろからず。さまざまの余興の果ては、いかがわしき白拍子《しらびょうし》の手踊りとなり、一座の無礼講となりて、いまいましきこと限りもなければ、疾《と》くにも辞し去らんと思いたれど、山木がしきりに引き留むるが上に、必ず逢《あ》わんと思える千々岩の宴たけなわなるまで足を運ばざりければ、やむなく留《とど》まりつ、ひそかに座を立ちて、熱せる耳を冷ややかなる夕風に吹かせつつ、人なき方《かた》をたどりしなり。 武男が舅《しゅうと》中将より千々岩に関する注意を受けて帰りし両三日|後《のち》、鰐皮《わにかわ》の手かばんさげし見も知らぬ男突然川島家に尋ね来たり、一通の証書を示して、思いがけなき三千円の返金を促しつ。証書面の借り主は名前も筆跡もまさしく千々岩安彦、保証人の名前は顕然川島武男と署しありて、そのうえ歴々と実印まで押してあらんとは。先方の口上によれば、契約期限すでに過ぎつるを、本人はさらに義務を果たさず、しかも突然いずれへか寓《ぐう》を移して、役所に行けばこの両三日職務上他行したりとかにて、さらに面会を得ざれば、ぜひなくこなたへ推参したる次第なりという。証書はまさしき手続きを踏みたるもの、さらに取り出《いだ》したる往復の書面を見るに、違《まご》う方《かた》なき千々岩が筆跡なり。事の意外に驚きたる武男は、子細をただすに、母はもとより執事の田崎も、さる相談にあずかりし覚えなく、印形《いんぎょう》を貸したる覚えさらになしという。かのうわさにこの事実思いあわして、武男は七分事の様子を推しつ。あたかもその日千々岩は手紙を寄せて、明日《あす》山木の宴会に会いたしといい越したり。 その顔だに見ば、問うべき事を問い、言うべき事を言いて早帰らんと思いし千々岩は来たらず、しきりに波立つ胸の不平を葉巻の煙《けぶり》に吐きもて、武男は崖道《がけみち》を上り、明竹《みんちく》の小藪《こやぶ》を回り、常春藤《ふゆつた》の陰に立つ四阿《あずまや》を見て、しばし腰をおろせる時、横手のわき道に駒下駄《こまげた》の音して、はたと豊子《とよこ》と顔見合わせつ。見れば高島田、松竹梅の裾《すそ》模様ある藤色縮緬《ふじいろちりめん》の三|枚《まい》襲《がさね》、きらびやかなる服装せるほどますます隙《すき》のあらわれて、笑止とも自らは思わぬなるべし。その細き目をばいとど細うして、「ここにいらっしたわ」 三十サンチ巨砲の的には立つとも、思いがけなき敵の襲来に冷やりとせし武男は、渋面作りてそこそこに兵を収めて逃げんとするを、あわてて追っかけ「あなた」「何です?」「おとっさんが御案内して庭をお見せ申せってそう言いますから」「案内? 案内はいらんです」「だって」「僕は一人《ひとり》で歩く方が勝手だ」 これほど手強く打ち払えばいかなる強敵《ごうてき》も退散すべしと思いきや、なお懲りずまに追いすがりて「そうお逃げなさらんでもいいわ」

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